パリ五輪が始まりましたね。
やはり注目は開会式ですよ!
ただ、トキョですでに落胆している身としては、ある意味、フランスの大会組織に優しい言葉をかけることができる。「安心してください。ハードルは下がっています」と。
トーキョーは、リオ閉会式で高まった期待値からの落差が大きかったですからね。
安倍マリオ 2 (現地より) 大歓声 リオ閉会式 (Abe Mario) (youtube.com)
見てください、この会場の興奮を!
この時は、日本人も誇らしく思ったことでしょう。
ここからの、あの開会式でしたからね。
まさに歴史に残る落差ですよ。
なのでフランスの関係者は、安心して本番に臨んでほしい、と思っておりました。
全ては見ていないけど、凄かったみたいですね。
以下、うっかり差別的な表現を使ってしまうかもしれませんが、ご容赦いただきたい。
この開会式は、数日前から「多様性がメインになる」とアナウンスされていたので、「ああ、またか」と。正直、この数年間、アメリカのエンタメをはじめ、「LGBTQ」や「ポリコレ」の無理押しに食傷気味だったので。
白人が主人公の話を、無理やり黒人に変えたりとか。
原作を変えるのではなく、黒人が主人公の物語を創作して、それをごり押しとかならまだわかるんだけど。
で、開会式ですが。
まず、あのモナリザが点々とした挙句にセーヌ川に浮かぶという場面。
モナリザと言えば、もはや人類の至宝ともなっている。これを川に浮かべてしまう。
なんか、従来の価値観をぶっ壊す、的なものか?
そうやって身構えたところで、黒人歌手がどこかの屋上にフランス国旗をもって立ちはだかっている映像が。
その姿は威厳に満ち、衣装の全ても相まって神秘的にすら見える。彼女は堂々と国家を歌っているじゃないか!
この黒人歌手の立ち振る舞いは、極端なまでの「反ポリコレ」はもちろん、管理人のような「ウンザリ派」をもねじ伏せる、素晴らしいものがあった。
彼女からは「フランス国民である」という、強い自負と誇りが溢れていました。
確かに人種は関係ない。良い意味で、「多様性の国」フランスを宣言しているように見えました。
・・・・・ここまでは良かったんだけど。
まあ、あの「最後の晩餐」を語る前に、良かったところを言うと、あのジャンヌダルクを模したと思われる、銀の騎士は「おお、これぞ欧州!」とアジア人に思わせるものがあった。
古い価値観かもしれないけど、「騎士道」を彷彿とさせましたね。
子どもも素直に「格好いい」という感想が多かったとか。
気球の聖火台もスゴイ!
その後の星の王子様も登場するなど、ああフランスは凄い国だなあ、と思わせます。
パリコレが始まったのも、おお、フランスだあ、と思った。
そう、やっぱりフランスって、芸術の街、という普遍のイメージがあるわけで。
で、最後の晩餐ですが。
いやあ、やはりきつかったですね。
マリーアントワネットのジョークですが、欧州ではこの手のブラックジョークが当たり前なのでしょうか?
大昔にミスタービーンのビデオを見たときに、ビーンがチャールズ皇太子とダイアナ妃の写真を、電動のこぎりで首から斬り落とす、というシーンがあって驚いたことがある。NHKで放送されたときは、ここはカットされていたんですよ。あの時まではNHKは「公共放送」の機関として機能していましたから、細かい「配慮」がなされていました。でも、レンタルビデオ版にはしっかり残っていたわけです。ちなみに、他にNHK放送時にカットされたシーンと言えば、おばさんのスカートがめくれて下着が見える、というシーンなので、カットされても支障はないかと思います。
というわけで、この手のジョークは欧州では、一定の市民権を得ているのかなあ、とおもったら、そうでもないらしい。
また、最後の晩餐で、青色に塗った太ったオッサンが出たり、女性がキリストだったり、胸毛ジャラジャラの筋肉質のオッサンが、下品な、いや妖艶な踊りを披露したり。
多様性はわかるんだけどね、見せ方が。
ただ、あの最後の晩餐の場面で、オッサンが異常に多かったので、フランスではオッサンが社会で認められ、受け入れられている、というのは理解できました。
この点は、オッサンを異様に差別するJAPANも見習ってほしいところ。
とはいえ「オッサンへの差別をやめろ!」と言って、裸になったり胸毛でストリップをする気にはなれませんが。
で、画面にいきなり、青い衣装を着た太ったおばさんが出てきた。
これは少し、きつかった。
最初に言っておきますが、自分だって太っているし、人にどうこういえる体系ではありません。自分の周囲でも男性女性を問わず、太めの方はいるけど、だからといって何もありません。逆に自分が時々、「鍛える系」の人(お医者さんは除く。それ以外のパンピー)にチクチク言われたりしますが。
それはさておき。
この太めの女性が、キリスト役で出てきているんですよね。
この異様な配役が、意外と成功しちゃうこともあります。
良い例が、日本にあるじゃないですか。
夏目さんの三蔵法師は、見た目の整った容姿は女性か美男子か見分けをつかなくさせ、声は静かで澄んでいるものの、悟空など叱る時は威厳があるし、むしろ三蔵法師の高潔さを表す「演出」としては上々なものとなりました。
本場の中国では、三蔵法師を女性が演じることに批判もあるそうなのですが。
少なくとも日本では、三蔵法師のイメージを高めたといえます。
でも、この夏目版三蔵法師も、「三蔵法師は男である」という基本は変えていません。
しかし開会式でのキリストは、胸の谷間も見せたりして、女性であることを隠していません。
これは確かに宗教を冒涜していると言える。
まえから思うのだけど、なんで「多様性を認めろ!」と叫ぶ側は、いとも簡単に他人の価値観をけなすことができるのか?
他人の多様性を否定していることを自覚できていないのか?
結局、「多様性」という言葉に怪しいイメージがついてしまったのも、「多様性」を連呼する人たちの、他の価値観への異常な攻撃性が原因と思います。
多様性に反対する人の意見への批判ならまだしも、キリスト教の価値観の根本部分をけなす、というのは、もはや他人の存在を否定しているのと同じ。
で、もっと言えばですね。
女性版キリストもそうですが、あのLGBTQてんこ盛りの最後の晩餐を見て、思うのですが。
本当にLGBTQで悩んでいる人は、あれを見て「言いたいことをやってくれた!」「スカッとした!」となるのですか?
パンピーから見れば、悪趣味な出し物にしか見えない。
LGBTQはキワモノ、という印象を植え付けるのには、成功していますが。
LGBTQの人は、こういう攻撃的な形を望んでいるのでしょうかね?
太ったオッサン、おばさんと同じように、フツーに生活することを望んでいるのではないのですか?
フツーに買い物して、晩御飯を作って、出勤して生活する。
この生活をしたい、と思う人がLGBTQの大半だと思うんですよね。
自分だって、体形をネタにされるのは複雑。大抵はジョークとしてネタにしている部分もあるし、ジョークとして言われて笑うなんてことが大半だけど、中にはジョークを超えて悪口になる人もいる。本人は「イジリ」のつもりだどうけど、相手を不快にさせた段階でイジリになっていない。
でも、今回の晩さん会もそうだけど、日本でもLGBTQを叫ぶパレードなどでは、ビキニパンツをはいて亀甲縛りをされた男性が道を歩く、という姿が印象に残ってしまった。
パレードに参加した人には悪いけど、それって「キワモノ」としか見られていないから。
そう、本人たちは世間に訴えているつもりで、むしろ「キワモノ」として世間に認知されてしまっているわけです。
それで本当にいいんですか?
あんな形で前に出たがる人は、ほんの一部だと思うんですよね
そのほんの一部の人の異常な攻撃性が、社会で「LGBTQ」のイメージとして印象に残っていく。新たな差別を助長しているとしか思えません。
大抵の、一般生活を望むLGBTQの人の、平穏な日常を邪魔しているとしか思えません。
今回の最期の晩餐を指揮したのは、フランスのサブカルの人らしいけど。
そろそろサブカルの暴走が、時に社会に不必要な差別を生み出すことも理解してほしい、と思った。
サブカルはサブカルだから輝くのであって、正統とか本筋にはなれません。むしろ本筋があるから、その対峙としてのサブカルが存在できる。
昔、あるネット番組で放送された(昔、見てた時期があった)、三笠宮寛仁親王のインタビューを覚えているのだけど、番組中でインタビュアーが寛仁様に「ファンションのコツは?」という質問をした際に、寛仁様は「正統を知ることだと思う」と答えていまして。「正統を知るからこそ、それを崩すこともできる。」と言った趣旨の内容だったと思う。昔のことだから忘れてしまっているのだけど。
寛仁様はオシャレでも有名だったのだけど、それは正統の着こなしを知っているから、と。
そう考えると、正統とサブカルは、どちらかが全面に出るのではなく、どちらも必要なのだと、それを見て思ったんですよね。
2012年のロンドン五輪の開会式を見ると、エリザベス女王が007と共演する、なんていう、最大級のジョークが大うけしましたが、正統とサブカルが融合していて、誰も不快に思わない、素晴らしい内容だったのだけど、今回のフランスの開会式はどうだったのだろうか?
まあ、東京大会でがっかりした身から言えば、ねえ。