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日本とソ連とユダヤ人 その1

 すんませんね、住んでいる場所柄か、昔から(ロシア語わからないくせに)ロシアに関心を持ってしまうのです。

 そして昨年の「国後島からの亡命希望者」から、ロシアの動向が日本を、そしてウクライナ問題で世界を騒がせていますね。

 ロシアがここまで介入するのも、もともとウクライナソ連の構成国家だったから、というもの。冷戦終了から30年を経て、いまだに世界はソ連の亡霊に動かされているわけです。

 

 特にヨシフ・スターリンによる民族の「配置」が、後世に大きな影響を残しています。

 それは欧米だけではありません。極東でも行われました。

 

 西洋世界から遠く離れた極東で、イスラエルよりも早くユダヤ人の国が作られたのをご存知ですか?

 このユダヤ人の国の成立には、日本も関与しているのです。

 

 今回、あまり語られることの少ない「極東のイスラエル」についてお話しします。

 

 

 

 

 

 地図マニアの自分ですが、極東地方の地図を物色中、面白い地名を見つけました。

 極東ロシアに「ユダヤ自治州」とあるではないですか!!

 

 

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白地図にて説明するとこちら!!

 

 

 

 

 

 

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この赤い部分ですね。ロシアの沿海地方、もしくは中国の黒竜江省のすぐそば!結構、北海道に近いし!

 

 

で、なんでこんなところにユダヤ人の自治州があるのでしょうか?ユダヤ人とアラブ諸国の国際問題は、遠い地域の出来事、と思っていただけに、不思議に思えて仕方ない。

早速、調べてみました!

 

 

 

 

 なお、ユダヤ自治州に関する情報は非常に少なく、ネット情報がメインとなります。

 

 

 

 ユダヤ自治州の中心都市は人口8万人のピロビジャン市。ユダヤ自治州全体では19万人が生活しています。

林業、農業などが主な産業で、夏は蒸し暑く、冬は極寒という気候。

なぜここにユダヤ人が住み始めたか、ですが、お話は日露戦争後まで遡ります。

 

日露戦争において勝利した日本は、帝政ロシアの影響下にあった満州における権益を確立。

影響範囲が中国大陸に及ぶとともに、帝政ロシアと長い「国境」を持つに至ります。

 

その後、1914年、第一次世界大戦が勃発。帝政ロシアでは経済状態が悪化し、1917年2月に「2月革命」が勃発してロマノフ王朝が打倒されてロシアにおける帝政が終了します。

 

 ロマノフ王朝崩壊後、ロシア国会では臨時政府が樹立され、議会制のブルジョア政権が誕生しました。一方、2月革命でロシア各地において農民、労働者、兵士を中心とした「ソヴィエト」と呼ばれる評議会が結成されます。

 中央の臨時政府が第一次大戦の継続を主張するのに対し、ソヴィエトは停戦と政治改革を主張。両政権は対立状態となり、ロシア国内は二重権力の状態となります。

 

 この2月革命の直後、スイスに亡命していたレーニンが帰国し、ポリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党の中の多数派。2月革命時点では少数派であった)を指導し、「すべての権力をソヴィエトに」という「4月テーゼ」という路線を打ち出します。

 

 そしてついに、2月革命後も大戦参加を継続する臨時政府に対して民衆の不満が爆発します。

 

 1917年10月23日、ポリシェヴィキが武装蜂起を開始。10月25日にはペトログラード(現在のサンクトペテルブルグ)にある、臨時政府が根拠地としていた冬宮(ロシア皇帝の冬季の王宮)を占領して臨時政府は倒れ、ポリシェヴィキが主導する「ソヴィエト」へと権力が集中していきます。

 そしてこれ以降、ロシア内戦が勃発し、それに勝利したポリシェヴィキは史上初の共産主義政権を樹立することとなります。

 

 この2月革命はイギリス、フランスをはじめとする連合国陣営を動揺させます。連合国の主要な一国であったロシアにおいて、当時の西洋社会では「資本主義体制の転覆を狙う過激派」とされていたポリシェヴィキによる政権が樹立され、しかも唐突に敵国ドイツと1917年12月に休戦条約を結んでしまいまったのです。

この休戦によってドイツは、ドイツ東部の対ロシア戦線に振り分けられていた兵力を、イギリス、フランスと対峙する西部戦線に集中する事態が考えられ、東西からドイツを挟み撃ちにする連合国側の戦略そのものが、大きく変わってしまうこととなります。

 そこでイギリス・フランスはアメリカ、日本に対し、ロシアのポリシェヴィキ政権を威嚇するために、シベリア方面への出兵を要請します。

 当時の日本においても、ロシアで巻き起こる革命の嵐とポリシェヴィキ政権の樹立を座視することができませんでした。日本の権益の及ぶ満州への影響と、日本国内へ共産主義革命が波及することに強い懸念を持っていました。

 

 そのタイミングで舞い込んできた英仏からの出兵の要請。

 

 日本は、東シベリアにおいてポリシャヴィキ政権と戦闘状態にあったチェコスロバキア軍の救出、を名目にシベリアへ出兵することを決定します。

 

 そして1918年、日本と同じく英仏の要請を受けたアメリカとによって「日米連合軍」が結成されました。

 しかし「連合軍」とはいうものの、両国の思惑は大きく異なっていました。当時のアメリカのウイルソン大統領はむしろソヴィエト政権に同情的であり、また日本の極東におけるこれ以上の権益の拡大を抑えるためにも、共同出兵することで日本軍の行動を枠内に抑えることを企図していました。

 

 実際、日本陸軍は、この出兵要請を日本の本格的な大陸進出のきっかけとする意図があったようで、アメリカに関係なく、日本が独自に出兵すべきと主張。原敬内閣も、軍の暴走を抑えるべく日米連合軍という枠内での出兵を決めた、という日本国内の情勢もありました。

 なお、日本においてこの決定がなされる直前、シベリアへの派兵が行われるであろう、と予想した米商人や地主たちが投機的な意味から米の買い占めに走り、米が高騰。これに富山の女性が「米よこせ」と叫んだことが全国に波及して「米騒動」がおこり、寺内内閣が倒れて原敬内閣が樹立された、といういきさつがあります。

 

 お話を戻すと、この日米連合軍には後にフランス、イギリス、カナダ、イタリア、中国も参加し、「多国籍軍」となります。

  

 1918年8月にアメリカ、日本はシベリアへの出兵を宣言。兵力は日本、アメリカがともに1万2千人ずつを派遣することとなります。そして軍事行動の範囲をウラジオストク周辺に限定する、という約束がなされました。

 1918年8月2日にウラジオストクに上陸した日本軍でしたが、その後、当初のアメリカとの約束を無視して参謀本部の独断にて軍の増派を決定、実行していきます。最終的にはアメリカが7000人の派遣にとどまったのに対し、日本の兵力は7万2千人にも達します。

この段階でもはや軍部の暴走は止めることができず、枠内での行動を決定した原敬内閣も、軍の決定を黙認するようになっていきます。

 

 ウラジオストク上陸後の日本軍の行動は、救出作戦、とは言えない広い範囲に及びました。

 日本軍は各地でバルチザンと呼ばれるゲリラ部隊の攻撃を受け、また極寒の環境にも悩まされながらも沿海州を占領。また満州の鉄道沿いに侵攻し、バイカル湖周辺にまで達します。最終的にはバイカル湖の西のイルクーツクまで到達。ロシア極東地域の広範囲が、一時、日本軍によって占領される事態となります。

 

 ところがここで情勢が大きく変わります。

 

 1918年11月、ドイツ軍が完全に降伏。

 

 シベリアの「多国籍軍」の出兵理由も失われてしまいます。

 その後のシベリアの日本軍は、極東の反社会主義勢力であるコルチャーク軍支援を目的としますが、その中心人物であるコルチャークも1920年に処刑されてしまい、完全に目的を失います。

そのためイギリス、フランス軍は1919年に極東から相次いで撤退。アメリカ軍も1920年までには撤退します。

しかし日本だけは「事後処理のため」として駐留を続けていました。

その時、「ニコライエフスク事件」が勃発します。

 これはアムール川の河口にあるニコライエフスクという町で、遠洋漁業のために滞在していた日本人居留民と日本軍の守備隊の合計700名と日本人以外の現地市民6000人が、バルチザンによって殺害されたうえに町が焼かれてしまった、というもの。

 ソヴィエト政権は責任者を追求し、バルチザンの首謀者を処刑しましたが、国際的には「日本軍がロシア側の軍使を殺害したため」と発表します。

 そして日本は報復として北樺太を占領。治安を維持するため、として軍の駐留を続けることとなります。

 

 しかし長引く日本軍のシベリア駐留に、出兵を要請したイギリス、フランスをはじめ、国際的にも「日本の領土的野心」を疑う機運が醸成され、1922年のワシントン会議においてアメリカからの強い圧力を受けることとなり、同年10月に、ようやく日本軍は撤兵します。

 

 それでも北樺太での駐留は続行され、1925年の「日ソ基本条約」の締結まで続けられていました。

 

 

 

 こうして日本軍がいなくなった当時のロシアの極東地域。

 

 なんとここまでが「ユダヤ自治州」誕生の前提となります。

 

 次に続く

 

 

 

 

*なお、シベリア出兵の過程などは不明な点も多いため、異なる可能性があります。あしからず。