世界史では宗教の対立(あるいは「宗教の対立」を口実にした戦争)による争いが、頻繁に起こっています。同じ宗教内でも、例えばキリスト教のように宗派の違いでも激しく争っていたのが事実。
そして、それは現代でも引き続いています。
では日本ではどうだったのか?
「なぜ信長は殺されたのか?」をテーマに日本史を調べるうちに、この点に関しても一つの見方を得ました。
なお、今回は「神仏習合」がメインテーマとなりますが、管理人は特定の信仰があるわけではなく、各宗教の本質に詳しいわけではありません。あくまでも管理人が目を通した歴史書をベースに語ることになることをご了承ください。
なんと北陸のある神社にて、アイヌの海にまつわる神様が祀られていた、とのこと。
なんでも北前船が盛んなころ、航行の安全を祈って、北前船の商人たちが祀った、とか。
アイヌと和人とは、対立する関係、との印象がありますが、争いなどがあったのは事実ですが、実際には両者の交易の歴史の方が長いです。
そして当時の日本では、「異教の神」を祀ることへの抵抗も少なかったようです。
これは日本が「多神教」の文化であったことも大きい。
仏教の「お盆」にはお墓参りをし、神社で「七五三」に行き、キリスト教の「バレンタインデー」にチョコをやり取りし、キリスト教とも関係のない「ハロウィン」で盛大に仮装する。
これらのことを行っても、日本では宗教的な論争が発生したり、信仰が問われる事態とはなりません。
そこで思い出したことがあります。数年前、親類宅を訪れたときのこと。
居間には神棚があり、隣には仏壇の置かれた仏間があります。
仏壇の周りには、他にも仏像があったりしてその前にもお水が置かれていたりしています。それぞれに意味があるのだろうけど、どう違うのか、宗教関係に疎い管理人にはあまりわかりません。
ミホトケとカミサマが一緒にあるのはお年寄りの家によく見られる光景、といったところでしょうか。(お年寄りじゃなくてもありますが)
仏壇の前にて手を合わせ、ご先祖様に日ごろの悪行を懺悔したのち、脇を見ると、ミホトケの姿とは思えない人物の書かれた絵が並んでいました。よーく見てみると、なんと聖母マリアの肖像画!
居並ぶ仏様方に交じり、高貴な微笑みをたたえておられました。ご丁寧に、マリア様の前にも仏様と同じくお水が置かれておりました。
なぜ?と聞くと、「洋行」をした知り合いにもらったらしく、あっちの神様のことはよくわからないが、「ありがたいもの」だからいっしょに祀ってある、とのこと。キリスト教を信仰されている方には失礼に当たるかもしれませんが、少なくとも貶める意図は全くありませんので、お許しください。
そういえば、キリスト教やイスラム教との「コラボ」は少ないかもしれませんが、日本においては神社とお寺が自然に同居していますね。
皆さんの中にも、小さい頃には神社とお寺の違いがわからない方も多かったのではないでしょうか?「え?違うの?」と気付かされた日があったのではないでしょうか?
キリスト教やイスラム教の世界では、こうした「信仰のかけもち」は許されるものではありません。中東諸国等に見られるように、現代でも宗教的な対立が起こりやすいのも事実。
でも、なぜ日本ではこのような「混在」が自然になったのでしょうか?
答えを探しに、古代の日本を見てみましょう。
聖徳太子の時代、飛鳥の地に日本で初めてのお寺である「飛鳥寺」が建設されました。
しかしこの建立は簡単に成し遂げられたわけではありません。
それ以前より、大和朝廷内部では、大陸から伝えられる新興宗教である仏教を受け入れるか否か、が問題になっていました。
日本にはすでに日本古来の神々による信仰があり、それを重んじるべきだという物部氏と、仏教を受け入れるべきだ、とする蘇我氏が対立、飛鳥寺の建立は排仏派をけん制する意味もありました。
この排仏派と受け入れ派との抗争は、蘇我氏の豪勢と天皇の容認などにより、受け入れ派が優勢になり、仏教は天皇の保護をうけますが、火種が完全に消えたわけでもありませんでした。
その後、天皇に迫る権威を手に入れつつあった蘇我氏が中大兄皇子と中臣鎌足によって殺されます(イツシの変。漢字変換できませんでした)。
*蘇我氏の台頭は、天皇の最初の危機と言えます。厳密には違うのだけど。
皇室の聖徳太子と、天皇にとって代わろうという蘇我氏の駆け引きがありました。
(この間に「白村江の戦い」という興味深い出来事がありますが、長くなるので割愛)
中大兄皇子はその後即位して、天智天皇となります。天智天皇には大海人皇子という弟がおり、大海人皇子を後継として「皇太弟」に指名します。
しかしその後、大海人皇子の権力の強大化を恐れた天智天皇は、子供である大友皇子を皇太子に任命、大海人皇子に皇太弟を辞めるよう迫りました。大海人皇子は朝廷から排除されてしまい、その後も天智天皇の監視下に置かれます。
そして天智天皇が病に倒れ、今にもこと切れそうをなったとき、大海人皇子を枕元に呼び寄せました。そして大友皇子を託しました。
しかし、イツシの変にみられるように、権謀術数巧みな天智天皇のこと、この会話にも罠があるかもしれません。大海人皇子は慎重に言葉を選び、強く辞退し、自分は政治に関与しない旨を伝えました。
不安を感じた大海人皇子は、逃げるように吉野の地へ移り、出家して自らは権力に関与しない姿勢をアピールしました。
その後、天智天皇が死去、大友皇子が朝廷を主導するようになると、存在感の大きな大海人皇子は強く警戒されます。
大海人皇子はここに至り、ついに挙兵を決意、「壬申の乱」が勃発します。
壬申の乱は、大和朝廷を支えていた豪族を率いる大友皇子、と、地方豪族を強力に従えた大海人皇子、の図式となり、結果、大海人皇子が勝利して天武天皇となり、大友皇子は殺害されます。
この「壬申の乱」ですが、後世の日本史にとって大きな転換点となりました。
それまでの「ヤマト政権」は、有力豪族の連合政権という意味合いが大きく、天皇の権力は必ずしも大きなものではありませんでした。しかし、壬申の乱によって天武天皇は、これら旧来の豪族を一掃することに成功し、その後の政権では天皇が大きな力を発揮、豪族の発言権は大きく後退します。
この構図は「関ヶ原の戦い」と似ています。徳川家康は、石田三成派を一掃すべく、敵対勢力が意図的に挙兵するように誘導します。そして関ヶ原の戦いにて、これを一気に倒し、徳川家の権威を一度に知らしめることに成功しました。この後の家康の存在感の大きさはご存知の通り。
これと同じ様相を呈した「壬申の乱」は正に「古代の関ヶ原」とも言えます。
壬申の乱後、天武天皇は飛鳥の地に本拠を移し、新しい王権の建設を開始します。
様々な政策が実行されますが、その中に、天皇の神格化の強化、があります。
それまでの日本では、各地に様々な「神」が存在し、祀られてきました。
スタジオジブリの作品の中でも有名な「千と千尋の神隠し」は、いろいろな神様が憩う「銭湯」が舞台。作品中、いろんな姿をした神様が出てきますね。エレベーターの中で千尋と乗り合わせた神様は、山芋がふんどし一丁だけ履いて歩いているかのよう。裸の大将みたいな神様。何の神様かといえば「森」だったり、「木」であったり、「石」であったり、いろいろ。千と親しくなった少年は「川」の神様でした。このように、日本では古来から様々なモノを神聖視し、そこに神が宿ると信じてきました。千と千尋の神隠し、はそんな日本の「八百八万の神」の信仰を表わしていますね。
天武天皇はそれら各地の「神様」を天皇のもとに集約し、天皇は各地の神様の上に立つ存在、とすることで天皇権威を絶対的にしようとします。
ご近所の神社に祭られている神様もたどっていけば天皇に行き着きます。天武天皇は、神道を天皇を中心としたものに体系化したのでした。(きわめて簡略な記述と思います。実際には神道の信仰と大きく関係があると思われます)
さらに天武天皇は仏教にも影響を及ぼします。
支配下の豪族などに対し仏教を奨励しました。この時期、豪族ごとの氏寺が各地で作られ、後にそれらは各氏の精神の手中となっていきます。
平安時代に興福寺は朝廷に対し「強訴」を繰り返します。この「強訴」が行われている間は、藤原氏の者は活動できない伝統があり、朝廷での有力勢力である藤原氏の活動停止は、即、朝廷の機能停止を意味したため、朝廷も氏寺の無理な要求を聞かざるを得ませんでした。
話しを飛鳥時代に戻します。
天武天皇は仏教を広める一方、僧と尼には国家への従属を要求します。僧職は国家のために祈ることを求められ、各寺院の所有地を取り上げて収入を国家が管理し、服装なども細かく規定する、など、事実上、仏教を国家の強い管理下に置こうとしました。
そして、これは国家すなわち天皇への従属を意味し、今や日本の神々の長たる天皇の下に仏教が従う事、つまり神道を仏教の上に位置付けることを明らかにしました。
さて、天武天皇はこのほか、官制改革や外交政策などにも力を入れました。
現在に至る「天皇」のあり方、日本の原型を決定した人物と言えます。
その点において天武天皇は、以前触れた源頼朝や北条政子と同様に、日本史における一級の人物、と言えます。
天智天皇時代の朝鮮半島情勢や、天武天皇の生涯はなかなか興味深いのですが、今回のテーマからずれますので、またの機会に触れたいと思います。
続きます。