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頼朝と政子の遺産 その2

お話の続きです。

 

 貴族同士の朝廷内での争いが激化し、政争の域では収まらなくなって武士という武力を用いるにまで至った結果、武士が朝廷内に進出し政治の動向を左右するようになりました。朝廷では主導権を得るために武士の後ろ盾が必要不可欠となっていました。

 平氏と源氏の対立も、貴族同士の抗争を武士が武力によって代理で行った結果、とも言えます。

 平清盛に敗れた源氏はそれぞれ斬首されましたが、まだ幼少だった源頼朝は清盛の情けによって斬首を免れ、伊豆へと流されて清盛の信頼厚い工藤氏の監視下に置かれたのでした。(ここから「鎌倉殿の13人」が始まる)

 

 さて、話を中央政界に戻して、後白河法皇の引き立てにより家格社会にいきなり入り込んだ平清盛平氏一門は、400年の家格社会の伝統の中で生きてきた公家たちの激しい反発を買います。

 

 そして東国では頼朝が挙兵。

 平氏は各地で源氏の軍勢に敗れ、京の都を追われて西国に逃げる事態となり、ついに壇ノ浦にて源氏に滅ぼされます。

 

 

 

 そこで新たなる問題が発生します。平氏無き後の政治の在り方す。

 

 貴族社会の反発を買って平氏は滅んだものの、もはや武士の実力をコントロールできる力と権威は天皇や貴族には残っていませんでした。

 一方で源頼朝も、問題に直面していました。

 今や大きな武力と存在感を持ち、政治のキャスティングボードを握るに至った頼朝ですが、ここで行動を誤れば立場を失いかねません。

 
 もし、平清盛と同じく後白河法皇の後ろ盾の元で、源氏が朝廷に進出したらどうなるか?

 頼朝は、平氏の台頭時に公家たちが見せた、よそ者、下賤の者の貴族社会への侵入に対する強烈なアレルギー反応を目の当たりにし、それが源氏に向けられることを恐れていました。

 平氏は朝廷でのし上がったものの、一方では朝廷に深く入り過ぎたがために、貴族社会に翻弄されてもいたのです。

 

 頼朝は、平氏と同じ失敗を繰り返さないためには、貴族社会とは別に自分の政権を築く必要を感じていました。

 

 ではどうすれば朝廷とは別に、政権を築くことができるのか?

 

 彼が目を付けたのは、「征夷大将軍」でした。

 

 ここで「将軍」について触れておきます。

 将軍とは、軍隊の指揮者であることはお分かりかと思います。しかし通信技術の進んだ現代とは違い、中世以前において、将軍に与えられた権利は軍事指揮権だけにとどまりません。
 戦闘地域における軍事権のほか、外交権、人事権、行政権、徴税権など、さまざまな権力が与えられていました。それは、いつ非常時が発生するか予想のつかない戦場においてはいちいち時間をかけて中央と連絡を取っている時間などなく、現場での判断が優先されたためです。戦闘地域の人心を速やかに治め、新たな戦闘に備え、機を見て停戦交渉やほかの勢力との外交交渉を、即時に行う必要があったのでした。

 

 でも、これらの権利をみて思いませんか?

 

 まるで一つの政府のようだ、と。

 

 その通りで、将軍就任とはまさに、独自の政府を開くことが認められたことに、限りなく等しかったのです。

 

 そのため、洋の東西を問わず、将軍や同じ意味の役職には様々な制約が設けられていました。

 古代ローマ帝国においては、軍事権を持つ執政官は、暴走を抑止するために常に二人置かれ、任期を1年に限り、また、非常時のみに任命される一人だけの独裁官も、任期は半年に制限されていました。
「ブルータス、お前もか!」という言葉を残して殺されたユリウス・カエサルの暗殺理由の一つに、彼が終身独裁官に就任したことで、王政が始まるのではないかと元老院議員が恐れたことがあげられます。

 

 中国でも将軍、あるいは独自の権限を持った「節度使」が存在していました。

 中国の歴代王朝は北方からの騎馬民族の侵略の脅威に常にさらされており、これら騎馬民族と対する北部地方には、緊急時に即応するために大権を与えられた節度使が置かれていました。

 

 しかし、節度使は、政府並みの権力を持つがゆえに独立傾向にあり、中央政府に対し、たびたび反発しました。また、時に騎馬民族と協力して自国の王朝に対して挙兵するなど、多くの問題を抱えていました。唐王朝滅亡の引き金となった「安史の乱」の安禄山も、中国東北地方の指揮官でした。
 このように、中国王朝が興亡を繰り返した理由には騎馬民族があげられ、また、それに対処するために置かざるを得なかった節度使の存在も挙げられます。中国歴代王朝は、常にその滅亡要因を内部に抱えざるを得ない宿命にありました。

 

 将軍職に伴う権限の数々は、戦闘地域に限られるとはいえ、一国の政府並み。

 

 頼朝はこれを、新しい政権構想の枠組みに利用しようと考えました。

 

 しかし、頼朝の思惑を薄々読み取った後白河法皇は、なかなか将軍職を与えず、朝廷官職である近衛大将への就任を要請します。頼朝はこれを強く固辞(後に就任するも、すぐに辞めてしまいます)。

 

 常に天皇の傍に居なければならない朝廷の官職である近衛大将では、公家社会の争いに巻き込まれ、平氏と同じ運命をたどるかもしれません。頼朝はあくまでも朝廷の外において、自己の政権を確立することを決意していました。

 

 そして後白河法皇の死。この機を利用した頼朝は、ついに征夷大将軍に就任。

 地方の武装勢力でしかなかった東国の自分の勢力も、将軍就任により晴れて「朝廷公認」となりました。

 

 そして中央貴族の家格社会の及ばない鎌倉にて、新政権の職制を樹立します。

 しかし頼朝の政略はそれだけにとどまりません。確かに強大な権限が許された「将軍」ですが、その権力の有効な範囲は「戦闘地域」に限るなど、制約がありました。

 そこで頼朝は、将軍就任前には義経追討にかこつけて全国の警察権を得るなど、重要な権利を少しずつ、でも着実に獲得していきます。頼朝の「独立」への動きは、将軍就任の前から始まっていました。

 

 古代ローマ帝国において、アウグストゥス以降を「皇帝」と呼ぶようになりますが、じつはローマ帝国には「皇帝」という職はありません。これは、執政官、軍事指揮権、護民官特権、最高神祇官、「国父」の愛称、など、それまでの共和制ローマにおいて存在していた職をすべて一人の有力者が併せ持った状態で、「皇帝」はあくまでも愛称でした。
 

 ちなみに当時のヨーロッパには「皇帝」にあたる言葉がなく、この「皇帝」の状態が表れて初めて誕生しました。軍事指揮権を表わす「インペラトール」から「エンペラー」が、「カエサル」から「カイザー」が造語され、今に至ります。

 

 頼朝もアウグストゥスと同じく、様々な権限を積み重ね、全国的にも影響の及ぶ新たな「将軍」像を確立したのでした。

 結果的に、新しく日本史に現れた「将軍」は、室町幕府江戸幕府などが成立する前例を作ったことになり、日本史上において、大きな画期となったのでした。

 

 よくユリウスカエサルは、織田信長にたとえられます。

 

 しかし、カエサルの功績が「共和制から元首制へ、国制を移行させた」という点にあるとするならば、「権力の実行機関を、朝廷から幕府に移行させた」頼朝こそユリウスカエサルに匹敵し、その後の将軍権力の確立の点ではアウグストゥスに匹敵します。

 源頼朝は、ユリウスカエサルアウグストゥスの両方の業績を併せ持った人物、と言えるのかもしれません。

 

 さて、頼朝は日本史を大きく方向転換させたのですが、上記ではまだまだ説明不足。

 それを実感してもらうには鎌倉幕府成立のもう一人の重要人物、北条政子に登場してもらう必要があります。

 

 ここからは、北条政子が大きな存在感を持ち始めます。

 

 続く