着々と日程が進む東京オリンピックですが、一部でネット上での日本をはじめ、世界各国の選手たちへの誹謗中傷が激しくなっている、とのこと。
コロナの状況下においては、オリンピックに対して様々な思いを持つ人もいると思います。また、自国の選手がメダルを取れなかったことで、相手国の選手への誹謗中傷も起こっている、とのこと。冷戦も終わった21世紀において、それは時代遅れも甚だしい。
今は世界中の人が、行方の見えないコロナに対し、不安を持っています。それは出場している選手たちも同じ。
延期決定からの一年間、「感染してしまうのではないか?という、今は誰もが持っている不安に加え、「本当に開催されるのか?」という不安もあったとのこと。そして何よりも「こんな時にオリンピックで競技している場合なのか?」という、得体のしれない罪悪心のようなものも抱えていた、とのこと。
別に彼らが悪いわけではありません。目標を目指して努力してきただけ。
これまで、いろんなお祭りやイベントが中止になり、気軽に繁華街をぶらつくこともできませんでした。
「自分たちが我慢しているのだから、選手も我慢しろ!」と思う方もおられると思います。
一方で、自分は真逆でして。
これだけ楽しみがなくなってしまった中で、せめてオリンピックだけはやってほしい、と。
そして開幕後からの世間の反応を見ると、そう考えるのは自分だけではないと確信しています。
日本代表がメダルを取るのもうれしいけれど、日本選手が出ていない試合や競技もみてしまいます。4年に一度の「非日常」ですし。
周囲でも、親子で観戦している、と言う話をよく聞くし、「この後、8時から○○選手登場」なんて見ると、その時間に合わせて見てしまいます。
柔道中継、卓球中継その他の競技に一喜一憂しています。
ソフトボールなんて、思いっきり感動してしまいましたし。
そして、テレビの前とは言え、この一年間、実感できなかった「非日常」を体験できていることに、自分はとても感謝しています。
それは日本の選手に向けてだけではありません。自国を離れるというだけでも不安な状況下でも日本に来てくれた選手に感謝しています。おかげでこの一年間、我慢してきたことを、毎日、感じることができています。
ネットに限らず、自分への否定的な意見って、どうしても心に残ってしまいますよね。「メンタルが弱いからだ」なんてのは、言うばっかりの人の思い込み。自分も、そんな言葉を使ったことがない、なんて言える聖人なんかではありません。
でも、大多数の人は勝ち負け以前に、感謝していると思います。
誹謗中傷の強い言葉に打ち勝つ言葉はあるのか?考えてみましたが、なかなか思いつきません。
自分は日本ハムのファンでして、数年前の優勝時に、本業のブログに毎日のように日ハムのことを書いていました。その記事の中に、同じような気持ちになったときに書いたものがありました。
これをこの場で、掲載してみます。
長いけど、お付き合いいただけたら幸いです。
(2016年11月の日本シリーズで、日本ハムが王手していた試合の前に掲載していました。)
長かった「野球の季節」も、いよいよ最終章に至りました。
皆さんの記憶に残っているのは、どの試合ですか?
それぞれのチームのそれぞれのファンにとっての、忘れがたい、印象に残る試合があると思われます。
試合は毎日のように行われるので、日常の風景と一緒になっている方も多いことでしょう。
自分は今年こそ、野球の観戦から離れようと思ったのに、やっぱり最後まで見てしまいました。
野球の試合結果を確かめてから寝るのは、明日の天気予報を確認する以上に日常的な事でした。
そうやって観戦し続けて、いつの間にか30年以上も経っていました。
毎年、シーズンが始まって、一年かけてリーグ戦が行われ、そして終わる。
この繰り返し。
物心ついたばかりの小学低学年のころ、色々なことを意識し始めた10代のころ、将来について真剣に悩んだ大学時代のころ、人生の節目となることの多かった30代のころ。
どの年代でも、常に自分はプロ野球を見続けていました。チームも選手も、どんどん変わっていきました。
野球観戦とはなんなのか?
興味の無い人から良く聞かれるのですが、自分でもよくわかりません。なんせ自分の野球経験なんて、皆無に等しい。なのになぜか、高校だろうとプロだろうと、野球の試合を見てしまうのです。もはや理屈ではないですね。
今年、久しぶりに映画「フィールド・オブ・ドリームス」を見ました。
初公開の際も話題になった作品。今でもケーブルテレビなどで放送されていますね。
最初に見たのが高校時代。
センスがある、と言われたい一心で、流行の映画を見ていました。
で、そんな当時にこの映画を見たときの、素直な感想は「まあ、感動作品の部類だな」(映画通のような口調で)。
映画に感動する、というのが恥ずかしいことのように考えていて、少し斜に構えていました。「作品を味わう」という事がどういう事かよくわからなかった、というのが本音。
それから時間も経ち、社会での変遷をたどって、30代半ばに家庭を持ち、家のローンを抱える身になっていました。
そのタイミングで、たまたまですが、この名作を見る機会ができました。
主人公のケビンコスナーは(以下、役名を忘れてしまったので、本名で書きます。あしからず)、30代半ばで農場を経営。奥さんと小さい娘を持ち、おまけにローンを抱えているという、30代中盤の男性なら決して珍しくない境遇。「農場経営」と言いながらも借金の返済に追われる、これまたありがちな状況。
しかし、彼は思春期の頃、野球を無理強いする父に反発して家を出て以来、家族と会っていませんでした。でも、そのことを忘れたかのように家族との生活と農場を営んでいます。平凡だけど、安定している、といった感じ。でも、これから先もこの日常が続くことに、かすかなあきらめにも似た心境を持っている様子。
そんなある時、農場の中で不思議な声を聞いてしまいます。それ以来、彼は今まで忘れようとしていた気持ちがおさまらなくなり、妻に対しても意見を通し、驚くべき行動力を発揮。
彼が一心不乱に望んだものは、なんと野球場でした。
農場の中という、とても違和感のある球場。周囲も唖然としてしまいます。
そこへ現れたのは、すでにこの世にいない、伝説の名プレイヤーたち。彼らが野球をするために、自分は球場を作ったのだ、と主人公は合点します。
しかし、彼への「声」はやみません。この球場に足りないものを求めて、彼は全米各地へ旅に出ます。彼が会う人たちは、野球をやっていなくても、時代が違っていても、野球好き、という点で共通していました。そして、彼らも「農場の中の球場」を必要としていました。
球場にやってきた色々な人が満足する中、彼自身は自分への見返りがなんなのか、疑問に感じます。「見返りのために作ったのか?」に言葉を失くす主人公ですが、そんなとき、彼の前にもう一人の選手が現れます。
男親と息子、という関係もなかなか微妙なもので、女性の親子関係と異なるようです。以下は自分の知っている範囲での親子関係になってしまいますが、母親と娘さんという間柄では娘さんの成人後も仲良く買い物に行ったり、お出かけするのは普通の様子。
でも、男の親子だと、簡単にはいかず(もちろん各家庭で異なります。)。
父親と息子は、中学くらいから、なんとなくギクシャクというか、微妙な距離ができ始めます。会話もなんともヨソヨソしくなりがち。教育評論家の方には「親子の断絶」「非行への兆候」とされてしまうかもしれませんが、ある時期から父親とは疎遠になり始めます。そのまま息子は独立して関係もなくなる人もいますが、社会人になった後に再び会話が始まる人もいます。
最初に「親父」にぎこちなくビールを注いだ日を覚えていませんか?
映画の主人公はそのような機会も無いまま、父親を亡くしました。散々憎んだ相手だけに、死んでもどうでもいい、と思っていたはずなのに、彼のどこかにトゲのように残っていた様子。
そうした彼もかつての父親の年になり、家族を持ち、借金も背負い、いわば社会の「王道」を歩んでいました。
しかし、父親との「悔い」はそのまま残り、彼の心の成長をどこかで阻んでいたのかもしれません。いずれはぎこちなく「仲直り(?)」できる機会も実現できないまま、娘も成長しつつある。
そんな時期に聞こえた声。
彼は最後に父親と「会話」することが出来ましたが、それを手助けしたのは「野球」。無言ながらもいつまでも続くキャッチボールは、彼にとってはぎこちなく注ぐビールのようなものだったのかもしれません。
彼の心の矛盾を、彼が昔嫌悪していたはずの「野球」を通して解消しました。
周囲の状況や行動だけ「大人」ぶっていたものの、彼を最終的に導いたのは野球だった。
親子の会話、というのは、言葉のやり取りだけだけではないのかもしれませんね。
釣りに行き、会話もなく釣り糸を垂らしていた時間や、無言で運転中の父親の横でドライブした事など。
久し振りに父もしくは息子を誘って、野球観戦にいくのもいいかもしれません。もちろん、会話も続かず、試合に熱中するだけかもしれませんが、昔と同じ時間を共有するのも、これまた会話の内。
新社会人になっての初任給に「親父」を誘ったり、遠地で暮らす、あまり会う機会の無い息子さんを誘って試合を見に行くのも良いのではないでしょうか?会話が無くても野球が仲立ちしてくれるかもしれません。
また、今はまだ小さいお子さんとの、生涯にわたる「会話」づくりのひとつにも、野球観戦は適しているかもしれません。
日本ハムファンにとっても、広島ファンにとっても、まずはこの時期まで自分の応援するチームの試合を見ることができることに感謝しましょう。
それも残り1試合もしくは2試合のみ。何か月もひたすら続いた野球の試合も、残りわずか2日間のみ。
もう結果なんてどうでもいい。
ここまで、快心の勝利や緊張の熱戦を見ることができただけで満足!
そして何よりも、チームの成長を確かめることができたのがうれしい!
3年前は、まだまだ頼りない「若造」ばかりだったのに、たくさん負けてたくさん失敗して、ちょっとづつ強くなっていきました。
そして、リーグ戦でも多くのライバルを破り、あのソフトバンクとの緊迫した「ファイナルラウンド」も制し、クライマックスシリーズにて行われた、本当の決戦にてソフトバンクを破り、日本シリーズでもセリーグを独走してきた広島相手に、個性あふれる戦いをしてくれている!
それだけでも大満足!
この3年間は、どんなにスゴイ小説もかなわない、とても見ごたえのある物語を見せてもらった!
最後の結末がどうなろうと、あとは選手たちや監督に、お任せします。
ここから先は、ファンや周囲の期待のため、ではなく、ただひたすら自分のために戦ってくれ。
勝敗なんて、どうでもいい。
やりきったかどうか、達成感を得たか否か。それだけでいい。
来週の月曜日、どんな結果であろうと胸を張って新千歳空港に降り立ってほしい。
どんな結末であろうと、今年のチームのことを忘れない!!
(爆笑)全く恥ずかしい文章を掲載したもんです。
しかし、それまで長い期間に渡って一つのチームに注目していた自分にとって、日本シリーズという特別な場に至ったことで感極まっていました。
出場している選手の周囲にも、自分と同じようにこの5年間、その成長を見守ってくれた方々がいると思います。その人の感想も同じと思います。
もはや勝ち負けとかではなく、とにかく自分のためにプレーしてほしい。結果はどんな形でも構わない。
みんなが同じものに注目して一喜一憂できて、職場や学校でみんなが同じ会話を共有できる、というだけでもオリンピックに感謝しています。
世界の各家庭にて、「東京でのオリンピックを家族と一緒にテレビで見た」という記憶が残るでしょう。
家族と同じ時間を共有できただけでも、我慢ばかりだった世界中の人にとって、意義があると思います。そしてそういう時間がいかに大切か、むしろこの1年間でみんな、痛感しているのではないでしょうか?
メダルなんてどうでもいい。手に汗握るプレーを見せてくれているだけで、各選手の母国の人々には、これまでのオリンピック以上に価値があると思います。
見ている側は、もうすでに十分、価値あるものをもらっているので、「国を背負って」とか「期待に応える」とか、考えなくていいです。
この一年間、開催されるかどうかの不安を持ち続け、リスクを冒してまではるばる日本までやってきただけで十分、勇気があります。
その勇気に比べれば誹謗中傷なんてちっぽけなものです。
選手たちよ、応援している人の方が、世界には圧倒的に多いので、安心して自分のことに専念してくれ!!