すみません、先日、掲載した「二条城会見」の記事で、内容に根本的な間違いがありました。
(当日の加藤清正の立場について)
本当にお恥ずかしい。
後日、内容を訂正した上で、改めて掲載しますが、数日間、掲載を控えようと思います。
本当に申し訳ございません。
それまでは大丈夫だと思うのですが、誤りがありましたら、ご指摘いただけたら幸いです。
すみません、先日、掲載した「二条城会見」の記事で、内容に根本的な間違いがありました。
(当日の加藤清正の立場について)
本当にお恥ずかしい。
後日、内容を訂正した上で、改めて掲載しますが、数日間、掲載を控えようと思います。
本当に申し訳ございません。
それまでは大丈夫だと思うのですが、誤りがありましたら、ご指摘いただけたら幸いです。
ついに豊臣に対し、公然と敵意を見せた徳川家康。
これに対し、豊臣側の窓口として家康の要求を受けた淀殿は激怒します。
近江の戦国大名であった浅井長政を父として、織田信長の妹の市を母とする、戦国時代を反映した血筋を持つ女性。
父・浅井長政の死後、母の市は柴田勝家と再婚。その後、羽柴秀吉によって柴田が滅ぼされると、秀吉の庇護のもとで成長し、1588年に秀吉の側室となります。
そして1593年、秀吉が待望していた嫡男を出産。この時の男子こそ、後の豊臣秀頼。
現代では様々な評価がなされる淀殿ですが、彼女は何よりも「豊臣家」を守るために傾倒していたことは事実。
関が原の際には、豊臣家のために兵を起こした石田三成が、秀頼のお墨付きを得ようと淀殿に交渉するも、淀殿が頑強にこれを拒否。結局、このときの判断により、家康も挙兵時の豊臣と石田三成の関係は立証できなかったために豊臣を追求できず、この時点での豊臣家の滅亡を避けることができたと言えます。
彼女は徳川主導の政治を、消極的ながら受け入れていた模様。
織田、柴田、豊臣と、常に戦国時代の権力移行を間近で見てきた彼女にとって、豊臣が徳川に抗うことの困難を察していたようです。その上で、「徳川の世」の中で豊臣が生きていく方法を模索していました。
決して、息子を溺愛したために大局に盲目となった女性、ではありません。
豊臣を守る決意を持っていた淀殿ですが、1605年5月8日の徳川家康の「臣従要求」には怒りをあらわにします。
政治の実権を徳川に委ねることになろうとも、家臣が主家をないがしろにしようとする行為、すなわち豊臣の家格の低下を許すようなことを、認めるわけにはいきません。
彼女はあくまでも、豊臣を守ろうとしていた。
このころ、豊臣方と呼ばれる勢力も揺れていました。
豊臣政権は斜陽であるのに対し、次々と布石を打ってくる徳川。時流がすでに徳川にあることは明らかでした。
戦国を通じて「機を見ること」に敏感になっていた大名にとって、自家を守るために徳川へ寄り始める豊臣方も珍しくなかったのです。
淀殿は味方の少ない中、自分が豊臣を守わなければならない、と決意していたようです。
この淀殿の強い拒絶と不満の表明に、家康もたじろいだ模様。
すぐに六男の松平忠輝を大坂城に派遣し、豊臣との融和策を取った模様。
この時は家康が折れる形で、事件は解決します。表面上は。
最初の強硬策に失敗した家康は、次なる策をめぐらし始めます。
この時点で豊臣秀頼は関白ではありません。ただ、関白を輩出した家門として、将来的には秀頼の関白就任の可能性は消えていませんでした。
淀殿に臣従を拒絶されてから2か月後の1605年7月23日、家康は近衛信伊を関白に推挙。
これにて豊臣の関白就任は、またも遠のいてしまいます。
断られてからすぐにこういうことをする徳川家康の意地の悪さ。
なんかね、大河ドラマでもやたらと家康を「聖人」扱いしたがるけど、戦国武将なんてこういうもんよ。
いずれにしろ、豊臣家の関白就任の可能性がさらに薄まってしまった。
思い出していただきたいが、豊臣政権は何を根拠にしていたか?
「関白は天皇に代わり政治を差配できる」という、関白に与えられた権限によるもの。
豊臣秀頼が関白ではない以上、豊臣政権の公的な根拠は不明確となり、私的な機関の色合いを強めてしまった。
全国のあらゆる勢力に命令できる、のではなく、豊臣の私領や家臣のみにしか命令できない、単なる家内の機関とも解釈できる。
全国統治の説得力がない以上、東国の征夷大将軍による幕府の独立の正当性が色濃くなっていきます。
これが豊臣政権の紐帯をさらに弱める結果となってしまいます。
以前から家康のふるまいに不満を持っていた豊臣方ですが、豊臣家の関白復帰を露骨に妨害する家康に、いよいよ危機感を高めた模様。ここから豊臣方も中央政界に政治工作を開始します。
豊臣が狙ったのが、「左大臣への就任」。
もう一度、官位の序列を書きますね。
この段階では、豊臣秀頼が右大臣、将軍である徳川秀忠は内大臣。
以前、お話ししたように太政大臣は名誉職のような存在のため、重視されていません。
ということは、摂政・関白が五摂家に戻っている以上、「ナンバー2」のポストは左大臣ということなります。そしてこの時、左大臣は空位のまま。
大阪方としては、関白が遠のいた以上、官位ナンバー2の左大臣への就任を目指します。
「関白が五摂家に戻った」ということは、徳川氏も関白になることはできなくなった、ということでもあります。
ならば、せめて徳川よりも上位の官位を得ることで、徳川を下風に置くことになり、また将来、関白が空位になった場合に備えることもできます。
左大臣就任に向け、豊臣方は活発な政治工作を開始。
その一環としてか、1607年1月11日、豊臣秀頼は右大臣の職を辞してしまいます。
これはどういうことか。政治工作が進んで左大臣昇進が見込まれるまでになっていたのか?
この動きを見逃さない徳川家康。
すぐに秀頼の左大臣就任の動きを妨害し始めます。
そして右大臣であった九条忠栄を関白に昇進させ、左大臣は空位のままとすることに成功。朝廷内部においても、すでに徳川の勢力が浸透していたのでした。
豊臣の左大臣就任を阻止した徳川家康ですが、彼にとって、やはり豊臣は油断のならない相手であることを再認識します。
どんなに弱体化させようと、「家格社会」という先例が重んじられる世界においては、豊臣が復活する道筋が残っている。
家康がどんなに他の摂関家を関白を就任させようと、豊臣家が「摂関家」である以上、豊臣が再び関白になる可能性があるのです。
戦国時代は、幕府を開いたから徳川の世になって終わり、ではないのです。
戦国の最後の埋火を消すことに、家康は難渋していました。
そして徳川政権を永続させるためには、豊臣家を徳川家に臣従させることを、どうしても避けることはできない。
徳川家康は、次の行動を開始。
1611年3月27日から4月12日にかけ、後陽成天皇の譲位と後水尾天皇の即位に関する一連の儀式が、朝廷で執り行われることとなりました。
徳川家康も当然、出席する。家康はそれに合わせて上洛することになります。
この自身の上洛に合わせて家康は、大坂城にいる豊臣秀頼に「上洛して家康に面会すること」を強い調子で要求。「家臣」が「主君」に要求している時点で、面会の意味は友好などではないことは明白。
家康は「徳川政権の永続」のため、この会見に強い想いを抱いていました。
上洛を要請するための使者として、信長の末裔として世間で一目置かれていた織田有楽斎を起用し、大坂城へ派遣します。
この要請に対し、豊臣秀頼と周辺は、当初、拒否の姿勢を示します。とくに淀殿は強く反対しました。
しかし、豊臣恩顧の有力大名であった加藤清正、福島正則、浅野行長らは、すでに情勢が徳川に傾いていることを見極めており、豊臣家の存亡のためにも家康と会見することを進言します。
豊臣が頼りとする加藤、福島などの意見は、秀頼や淀殿も無視できない。
秀頼は、しぶしぶ、会見することに同意します。
戦国時代は、確実に、終焉へと向かっていました。
続く
徳川家康による「独立政権」樹立の道のりは、まだ半ば。幕府の創設はただの「一歩目」に過ぎません。家康は、ここからさらに政治工作を進めていきます。
この先のお話しには、「官位」が重要になってきます。ここで、官位に関して以下の序列を覚えておいていただきたい。
朝廷官位を上位から並べると、
となります。なお、二番目に「太政大臣」とありますが、これはちょっと扱いの解釈が難しい。創設時から名誉職的な意味合いが強いもので、公家の家格社会に取り入れられたものとは異なるらしい。「名誉会長」「名誉教授」というような、実権や実体はない職籍と考えて差し支えないと思います。
さて、1603年2月12日、徳川家康は征夷大将軍、淳和奨学両院別当に就任すると同時に、右大臣にも昇進しています。それまでは「内大臣」となっていました。
この時、豊臣政権の中心人物であった豊臣秀頼は「正二位、権代納言」。
官位で言えば家康よりも「格下」となりますが、家格社会では、代替わりした際には後継者は低い官位から始まるものの、最終的には自動的に関白に達することが決まっていたので、秀頼がこの時点で低い官位であっても問題ではありません。
実際、秀頼が1597年に最初に叙任された際の官位は「左近衛中将」ですが、翌年の1598年には「権代納言」へ、官位の序列で言えば大幅な出世を果たしていますが、これも豊臣家が「摂関家」と認識されていて、最終的には「関白」となるために辻褄が合うように出世スピードが考慮されていたため。
これが「家格社会」です。実力の有無など関係ない。本来の家の「上下関係」は、ある一時点での官位で決まるのではなく、最終的にどの官位につくのか、で決まっているのです。秀吉が「豊臣家」を創出してまで関白に就任したことが、家格社会にどれほどの衝撃を与えたか、想像できると思います。
話を戻すと、1603年の家康の将軍就任の時点の官位では家康の方が秀頼よりも上位ではあるものの、公家社会や諸大名などでも、摂関家である豊臣家のほうが上、と認識されており、あくまでも家康は豊臣秀頼よりも「格下」とされていました。
800年近く続いている家格社会、貴族社会の根底にある「常識」は、家康の力をもってしても簡単に変えることはできません。
現時点で諸方が家康に従うのは、彼の圧倒的な実力によるもの。
徳川氏に従っていた、というのではなく、あくまでも徳川家康個人を恐れていたにすぎません。
もし、家康が世を去れば、再び徳川家を凌駕する存在が現れ、幕府も消滅してしまうかもしれない。
なんせ家康自身が、それを豊臣政権で行っているのですから。
家康は、将軍就任の2年後の1605年4月16日、征夷大将軍を辞職。息子の徳川秀忠が征夷大将軍に就任します。
家康はこれにて、将軍職が代々、徳川家に世襲されることを世間に広めます。
家康は、自身の権威が強固なうちに、徳川政権の存続を確かなものとしたかったのです。
そして、この将軍辞職と共に、家康は右大臣も辞職しています。そして右大臣を豊臣秀頼に譲っています。同時に徳川秀忠が繰り上がって内大臣に就任します。
これにより、現職の将軍が、豊臣家よりも下位であるというメンツは保たれました。
ただ、これも家康の布石であった。
豊臣秀頼は関白ではなかったものの、豊臣家はいまだ秀吉の残光によって大きな勢力を有しており、また関白を輩出した「摂関家」でもあったため、公家社会などではまだ、「いずれは秀頼が関白に就任するだろう」という見方が残っていました。
摂関家である豊臣家には、この時点でも年頭になると京から大阪へ、公家が大挙して参賀のために訪れていましたし、豊臣家には家臣への独自の官位叙任権をもつなど、朝廷からは秀吉の時代と変わらぬ扱いを受けていたのです。
そう、この時点ではまだ、家康は豊臣家を軽んずるわけにはいかなかった。
官位の上では、将軍家は豊臣家よりも下、という演出をする必要があったのです。一方で、家康はどうやら、豊臣家の「昇進」を右大臣で止めておく算段もあったらしい。つまり摂関家である五摂家に組み込まれず、右大臣を代々の最終官位としようとしていた。
上記のように、この時点では豊臣家の勢力は大きく、また福島正紀、加藤清正などの秀吉恩顧の有力大名も健在。
この頃、東日本を徳川家が、西日本を豊臣家が支配する構図となっていました。
一方で、家康は将軍と右大臣の辞職から一か月も経たない5月8日に、高台院を通じて、秀頼の母である淀殿と交渉をしています。
高台院ですが、この人物は秀吉の正室の北政所、すなわち「ねね」のこと。北政所と言えば豊臣家の大有力人物。
その有力者を通じて家康が淀殿に要求したのは、「秀頼が家康に臣下の礼を取ること」!!
ついに家康は豊臣家に対し、最初の「牙」をむき出しました。
これは実に微妙なところを衝いている。
「徳川に」ではなく、「家康に」というところがポイント。
家康は既に将軍ではありません。なので摂関家が将軍に跪くという、官位の上での「主従逆転」には当たらない。
一方で、家康という、時の有力者への臣従を求める。
家康は、単に早期に将軍を世襲することで、世間に「徳川が将軍を受け継ぐ」ということをアピールしたかっただけ、ではないのです。「フリー」という立場を使って、豊臣家を徳川の下風につかせようともしていた。
さすがは戦国最大の「策士」である徳川家康。ここでも家康は、一つの行動で2つ以上の目的を達成しようとしていたのです。
長くなったので続きますね。
当ブログでは昨年末から今年のお正月にかけて、歴史記事を掲載いたしました。
管理人は日本史が好きで、特に権力の移行期にとても興味があります。
朝廷から鎌倉幕府への権力移行、鎌倉幕府から室町幕府の成立、室町幕府崩壊から豊臣秀吉の天下を経て徳川家康が幕府を開くまで。
どの時代もスムーズに権力機関の移行ができたわけではなかった。
その歴史記事ですが、徳川家康が幕府を開いて政治の実権をにぎるところまでお話ししましたが、なんとそれから伸びてしまった!
未完のままでもいけないので、完結させます。
くれぐれも繰り返しますが、これは一人の歴史好きのファンタジーであることをお忘れなく。
前回の記事は、朝廷官位である「関白」を基盤とした豊臣政権から脱出するため、征夷大将軍に就任して独立を果たした徳川家康。
家康が、朝廷の権力機関であった「豊臣政権」から合法的に脱する方法は、鎌倉幕府、室町幕府という先例のあった「征夷大将軍」に就任する以外にありませんでした。
しかし「幕府」という権力機関は、戦国時代を通じて、徹底的に威厳が低下してしまっていました。
家康の「戦い」は、幕府の創始で終わりではありません。
征夷大将軍に就任したその日より、威厳が地に落ちた「幕府」に、諸方を従える権威を持たせるための戦いが始まります。
お話は、家康が征夷大将軍に就任する少し前から始めます。
関が原の戦いののち、慶長7年(1602年)に、徳川家康は伏見城に戻り、政務を行いますが、このころか征夷大将軍になるべく活動を開始した模様。
家康は、当時の有力な神道家であった新龍院凡瞬に、徳川氏が源氏のカリスマ的存在である源義家と血縁が通じるように、徳川氏の家系図を操作するように命じます。平たく言えば「家系図を捏造しろ!」という命令。
少し脱線しますが、源義家とは、平安時代の末期の「前九年の役」「後三年の役」で英雄的な活躍をした人物で、それ以降、武士、特に東国の豪族たちの間では伝説的な存在になっていました。源頼朝が鎌倉幕府を創始できたのも、もともと東国の間では源氏はカリスマ的な存在であったことが下地にあります。
そして鎌倉幕府の100年を経て、征夷大将軍は源氏が世襲する、という風潮が強まります。まあ、実際には「将軍は源氏じゃないとだめ!」となったわけではなく、信長も将軍就任を勧められています。
ただ、豊臣権力からの脱出を目指していた家康には、豊臣家という主家を離れる理由を得るためにも、源氏を名乗る必要がありました。豊臣家からの独立とは、朝廷からの独立と同義でもあったのです。
「源氏」の系譜について話すと、すんごく長くなるのでここでは割愛させていただきます。
とにかく、家康は家系図を偽造することによって、自身が征夷大将軍に就任できるための地固めをします。
こうして血縁問題を「解決」した徳川家康。並行して朝廷にも裏工作をしていた模様。
慶長10年(1603年)2月12日、後陽成天皇は、当時家康が滞在していた伏見城に勅使を派遣し、家康を「征夷大将軍」「淳和奨学両院別当」「右大臣」に任命する宣旨を下します。
ここで「淳和奨学両院別当」という難しい単語が出てきましたが、簡単に言うと、源氏長者が就任することが慣例の職籍。
家康が、この淳和奨学両院別当に任命されたということは、「家康が源氏長者である」ということが朝廷の公認となったことを意味します。
つまり「捏造された家系図」が「ホンモノ」と認められた、ということ。
「源氏長者」も話すと長くなるけど、ここでは「源氏の本家の跡取り」ということで
納得していただきたい。
この源氏長者に任命された、ということは、「征夷大将軍」の職を代々、徳川家で世襲することも認められた、と言えます。
つまり家康の代だけの「独立」ではなく、家康の亡き後も徳川家が幕府を継承することを、暗に認められた、と。
これは朝廷からの独立、すなわち「公家」である豊臣家からの独立を許されたことも意味していました。
この1603年2月12日は日本史でも重要な日。
名実ともに、家康が「秀吉の罠」を脱出した日だったのです。
なお、この時に就任した「右大臣」という朝廷官職も、後の行動の布石となります。
伏見城で宣旨を受けた一か月後の3月12日、家康は伏見城を出立し、京の二条城に移ります。
これもよく考えれば恐ろしいですね。もはや主家であり、「元」とはいえ関白家であった豊臣家を無視して、天皇の居所の近くである現在の京都御所の近くの城に自由に滞在する。
すでに行動で、豊臣と徳川の「主家逆転」が示され始めていたのです。
そして3月21日、二条城にて衣冠束帯(公家の正装。TPOに合わせた衣装を身につけたということ)をまとい、天皇の居住する御所に参内し、天皇と謁見。将軍参賀の礼を行いました。
その後の3月27日、二条城にて、徳川の重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀を行います。
さらに4月4日から3日間、同じく二条城にて、今度は諸大名や中央公家(高位の貴族たち)を招いて、能楽などでもてなししました。
これら一連の行事にて、中央政界にて自身の将軍就任を祝うと同時に、暗に豊臣家から独立したことを、諸方に誇示したのでした。
こうして将軍に就任することで豊臣のもとから独立を果たした家康。
しかしこれは家康にとっての「第一段階」に過ぎません。
家康はすぐに、「第二段階」へと進みます。
第二段階とは、すなわち「徳川政権の永続」です。
続く!
日本の夏において、集中豪雨による災害は「必ず起こるもの」となってしまいました。
今年も日本の各地で、集中豪雨による被害が発生してしまいました。それは雨災害が少ないとされる北海道でも同じ。
つい先日も、札幌近郊のJR線が、大雨による影響で運休となってしまいました。
ただ、台風は9月にも多いとされているので、まだまだ気を抜くことはできません。
さて、今夏の集中豪雨災害で、注目すべき出来事がありました。
東日本の集中豪雨の被害により、東海道新幹線をはじめ、山陽新幹線まで、全ての新幹線が運休となってしまったのです!
山陽新幹線のある西日本の天候はよかったんですよ。
なのになぜ、西から東まで、新幹線が運休してしまったのか?
それはこのブログを読んでいただいている方ならお分かりかと思いますが、東京から博多まで、一つのレールで結ばれているからです。
日本の人口と経済の集中地域を貫く東海道・山陽新幹線ですが、それだけにダイヤはすでに過密しています。しかも東京乗り入れ便も多いため、東京が西日本のダイヤにも大きく影響しているのです。
東京方面の短い区間で運休となってしまった場合、ダイヤ体系を乱さないためには西日本も連動してしまうのです。
管理人も、東北・北陸・上越の新幹線と異なり、さすがに日本の大動脈である東海道・山陽新幹線では「安全弁」があるだろう、と思っていたんですよ。それこそ新大阪で折り返し運転とか。
しかし、使用車両の都合などもあり、それも無理だったのです。
これは新幹線が拡大した負の影響ともいえる。新幹線ダイヤの東京一極集中がもたらした弊害。
とはいえ、東海道・山陽新幹線は東京と結ぶためだけにあるのではありません。沿線には名古屋を筆頭に、静岡や京都、神戸、岡山、姫路、広島など、大都市があります。これらの都市間移動でも、新幹線は重用されています。
「国土強靭化」が、ここ数年、叫ばれていますが、新幹線体制の強靭化はその中でも緊急度の高い部類なのではないでしょうか?
要は、全てのダイヤが停止するのを避けるため、短区間ごとに「安全弁」を設け、ローカルの循環は保つようにする、と。
そうなると主要駅での引き込み線の新設などが必要になってくる。
北海道新幹線の札幌延伸が実現した場合でも、これは必要になってくる。現状では、長野県のどこかで災害が発生し、北陸新幹線の長野県の区間で不通となってしまっても、札幌発東京行きの新幹線にも影響が出てしまうのです。
東海道・山陽新幹線は、人口密度と言う点で「全国規模」の大きな損害をもたらしました。北海道、東北、北陸、上越新幹線は、人口こそ少ないものの、国土をカバーする面積の広さで言えば、東日本から北日本の広範囲に影響を及ぼしてしまいます。
そして、北海道で言えば、より使用頻度が高まるとされる「札幌ー函館」間も、影響が出てしまう可能性が高い。
新潟県の新幹線事故によって、札幌ー函館も運休になってしまう、という事態まで起きかねません。
しかし、函館駅までフル規格の「引き込み線」を作ることで、北日本のどこかで災害が起こっても、少なくとも北海道内のローカル循環は保つことができる。
建設費は100億円くらいらしい。もっとするかもしれないけど。
東京の経済関係の方は、この金額をどう思われますか?
「函館市民だけが得するのに100億円はもったいない!」と思われますか?
しかし、今夏の新幹線の「事件」を思い出していただきたい。
東京から福岡まで、全ての便が運休したことによる全体の経済損失は、たった一日でも100億円は軽く超えたのではないでしょうか?
災害は避けることはできません。なので経済損失は避けられない。
しかし、それでも西日本や他の区間の一部でも運休を回避して、ダイヤを維持できていれば、その経済損失を少なくすることはできたのではないでしょうか?
そう考えた時、100億円の投資は、高いのでしょうか?
集中豪雨により被害は、これから先も毎年、起こるでしょう。
災害そのものをなくすことはできないとしても、その影響を小さくすることも「強靭化」の一つなのではないでしょうか?
函館新幹線は、決してローカルな問題ではないと思います。
そして、この問題で悩んでいるのは函館以外にもあると思います。特に既存の新幹線沿線の都市で。
東京のダイヤに振り回されて、ローカルな循環まで止まってしまうことに不安を感じる地方自治体は、他にもあるのではないかと思われます。
函館新幹線を求める際に、それらの自治体をともに、この問題を訴えるのもいいかもしれない。
・・・・・・すみません、ここ数日「A列車で行こう」をプレイし過ぎました。
追記
今年、札幌ー函館間の都市間バスが大幅に減りました。運転手不足のためです。
移動する手段として、これから鉄道の比重がより大きくなると思われます。
今の新函館北斗駅のままで、満足のいく「都市間移動」が確保できるのでしょうか?
新幹線のフル規格による函館駅延伸は、妄想ではなく現実的、それも想像以上に緊急の課題、と言えます。
先日、エスコン新駅についての記事を書きました。
エスコン観客だけを考えると躊躇してしまうけど、南側の千歳にラピダスが完成すれば、住宅地としても発展が期待できる、と。
一応、エスコン新駅は着工に向けて動き出したようです。
その後、いつも拝見している北海道の交通系の動画を見て、このエスコン新駅の建設が、決してエスコンフィールドだけの問題ではないことを知りました。
その動画によると、要はすでに千歳線のこの区間、「札幌ー新千歳空港」間はダイヤが過密していて、線路容量を超えてしまっている、と。
確かにエスコン新駅は、札幌-新千歳空港という、北海道で最も列車が通過する路線にあります。
この区間には、普通列車をはじめ、札幌と新千歳を結ぶ快速「エアポート」(JR北海道を代表する快速)、帯広・釧路、苫小牧、室蘭方面への特急車両、本州への貨物列車などが数分単位で行き交っています。
すでに過密ダイヤになっているところに、エスコン新駅ができても観客用の車両を用意できるのか、と。
これは正しい。
しかし、これはエスコン新駅だけの問題ではありません。
千歳で着工されたラピダスが稼働すると、沿線人口はより多くなると思われます。
ということは、エスコン新駅に関係なく、この「札幌ー新千歳間」の過密を解消する抜本的な解決が求められます。
また2030年に新幹線の札幌延伸が実現すれば、この地帯は新幹線駅にも新千歳空港にも近い場所として価値が上昇する。
で、ですね、その新千歳空港のJR駅も問題を抱えている。
新千歳空港駅は、新千歳空港の真下にありますが、盲腸線のために折り返し運転となります。もし新千歳空港から帯広・釧路・函館・室蘭方面に向かい場合は、南千歳で乗り換えないといけない。
新千歳空港の利用者急増を受け、新千歳空港と札幌との輸送の改善も求められていました。
コロナ前の2019年、「将来的な計画」として、新千歳空港駅の改修、というよりは新設に近い大改造計画が発表されました。
しかしコロナで状況は暗転。もともと10年単位の長期計画だったのですが、無期限の延期に近い存在になってしまった。
ところがところが、またまた状況が変わり、ラピダスの建設が決まった。しかも数年後。
ラピダスの建設により、この区間の輸送力増強は喫緊の課題となってしまいました。
もはやレールの増設なども現実的に考えないといけないレベル。
こうしてみると、エスコン新駅の問題はエスコンフィールドだけにとどまらない、道央圏の交通の抱える根本的な問題と言えます。
エスコン新駅の建設は、新千歳空港駅と連動する必要が出てくる。
こうなってくると、エスコン新駅問題は、北広島だけの問題だけではなくなり、札幌、恵庭、千歳、新千歳空港を含めた広い地域にまたがった問題と言える。しかも新千歳空港も関係するとなると国土交通省という中央省庁も関わってくる。
これは北広島がどうこうではなく、北海道や知事が主体となって解決にうごかなければならないのではないでしょうか?
この問題には、そんなに時間が残されていません。
追記
北海道新聞によると、札幌市電が30円値上げになる、とのこと。
資材高騰や燃料費の高騰が原因とのことですが、日本ハムの移転も関係しているのではないか、と勘繰ってしまう。
日本ハムが札幌ドームで試合をすることで、東豊線はドル箱となっていました。
それが今年は激減したはず。
市電の値上げを決める前に、交通局全体の売り上げや地下鉄・市電の路線別の収支も公表する必要があるのでは?
日本ハムの移転は、札幌ドームの赤字化だけではすまない影響を残しつつあるのではないでしょうか。
管理人はサッカー経験はありません。観戦経験も少ないです。
なのにサッカーを取り上げる頻度が高まってしまった当ブログ!
いんだよ、書きたいのを書くから!だって「意識低い系」だもの。タイトルにあるじゃん!!
・・・・・・・そんな見苦しい言い訳は後にして、本題へ。
ドイツ戦について取り上げた以上、トルコ戦にも触れないといけないのではないか、と
勝手な義務感が沸き起こってきまして。
つーか、トルコ代表って、2002年大会以来、W杯に出場していないんですね。これは意外。
とはいえ、常に欧州の代表チームと戦い、選手の多くも欧州リーグでプレーしている以上、日本と同格に考えていいのかどうかは疑問が残ります。
ドイツとは異なるかもしれないけど、このトルコ戦も、「現在、日本がどの位置にいるのか?」を見極めるには絶好の機会となるかもしれない。
で、内容は、勝利。しかも4点もとって。
しかしこの勝利は、非常に大きな意味があった。
ドイツに続いて、欧州に近いトルコを破ったことで、世界のメディアは明らかに日本への評価を変えた!
海外のサッカーメディアが日本代表に注目するなんて、奇跡ですね。
管理人の若い時にも一度、世界のサッカーメディアが日本に注目したことがあったんですよ。
1996年のアトランタ五輪で起こった「マイアミの奇跡」というやつです。
当時に五輪日本代表が、なんとブラジルに勝っちゃった!!
ドーハの悲劇から間もないころで、いまだワールドカップに出場したことがなかったのに、王者に勝っちゃった!
当時の日本も大きなニュースとなり、新聞の号外まで発行されるほど。
そして世界のメディアも「信じられない!」と、この日本の快挙を大々的に報道し、名実ともに、日本は主役となりました。
・・・・・この日だけね。
一度、ブラジルに勝利したくらいでは世界の日本に対する評価は1ミリも変わりませんでした。この「マイアミの奇跡」も、これまでも世界のサッカーの歴史に稀に起こった「珍事」として、一瞬で忘れ去られていきました。
こういうのは、管理人は幼少のころから何度も経験している。
またも高校野球を例にしてしまうけど、かつて北海道の代表は、必ず負けていました。しかも結構な大差で。
それでも地元の北海道新聞や道新スポーツは、例え大差で負けようと、なんとか北海道代表を盛り上げる記事を掲載していました。
12-2で負けたとしても、その2点に注目し、「この回、北海道代表は執念の反撃を見せ、強豪校の選手、ベンチに脅威を与えた」とか、「負けはしたものの、5回の北海道代表の素晴らしい守備は、大会関係者に強く印象付けた」などと、「良かった場面」を無理やりクローズアップし、まるでそのプレーによって強豪校には「北海道、すげー!」「侮れないぞ!」とトラウマを植え付け、大会関係者が「北海道にスゴイチームがある!」と胸に刻まれたかのような、記事を掲載していました。
もちろん、誰も覚えてないけどね。翌日には忘れ去られるのがフツー。
道民も誰も、それを信用していないけど。でも、そういう風には書いてほしいですけどね。
とにかく、96年の「マイアミの奇跡」は、日本では「奇跡」などと格好いい名前がついて、日本サッカー史に永遠に刻まれる「歴史的快挙」の扱いですが、世界では「え?そんなことあったっけ?」という扱い。ブラジル人だって覚えていません。
とにかく、27年前の日本の快挙は、世界に何の影響も及ぼしませんでした。
しかし、今回の欧州での2戦は違う!
世界に確かなインパクトを残したのは事実!!
でも、どこまで世界に影響を残したか、については冷静になる必要があるかもしれない。
ドイツ代表のコメントを見てくれ!
要は「フランスチームのことは、よく知っているけど、日本は良く知らなかった」というようなニュアンスの発言。
これよ、これ!
これこそ「大国」のプライド!
彼らは、決して「日本ごとき」に、「完全敗北」なんて認めない。
100年間以上もサッカーが強かった国が、そんなに簡単に負けを認めるわけない!
おそらく、欧州での日本の位置づけも、決して「我々と並んだ」などと考える欧州の国はないでしょう。
これは、思春期にスクールカースト底辺にいた管理人には、よくわかる。そんな簡単にクラスの人気者になるわけないじゃん!
高校野球だって、駒大苫小牧が優勝しないと、評価はされなかった。
サッカーでも、ワールドカップで優勝しない限り、世界の日本に対する評価は大きくは変わらないでしょう。
じゃあ、何の痕跡も残さなかったのか?となると、それも違います。
少なくともこれからは、日本代表について、事前に知ったうえで試合に臨まないといけない、ということは認めている。
これまでは事前に日本の情報を知ろうとしなかったのでは?そして、それでも当たり前に勝っていた。
しかしこの2戦で、これまでよりは本気で臨まないといけない、と思うまでには認めさせたといえます。
これは「マイアミの奇跡」とは大きく異なる点。
そして、ここから先の景色を見たことがあるサッカー関係者はいないのでは?
欧州でも一定の評価を得て、いよいよW杯ベスト8の先に進むことが現実的になってきた。
この先は、だれもレールをひくことができない。
名実ともに、森保監督と代表選手しかわからない領域。
ぜひ、世界での日本代表の地位を挙げていってほしいですね。